横田城址について
松尾芭蕉の奥の細道に、奥州平泉で詠んだ「夏草やつわものどもの夢のあと」という句がありますが、 我がすずめのみやにも「つわものどものゆめ跡」がありました。兵庫塚3丁目児童公園に「横田城址」という黒御影石の立派な碑が建立されています。
鎌倉時代の雀宮は、宇都宮家の領地でありましたが、天智天皇の嘉禎3年(1237年)宇都宮家5代頼綱(よりつな)の次男宇都宮越中守頼業(よりなり)が横田姓を名乗り兵庫塚に、五稜形の横田城を築いて横田郷1千町歩を領有しました。 嘉禎3年10月のことでした。
城址は東西150間・南北120間・面積3町5反歩で、五稜形の地形をしていました。しかし、12年後この地では、宗家宇都宮家を守るには、地形が思わしくなく、結城 芳賀両家との関係もあり、それに政策上の都合などから上三川に築城し移り住みました。現在の横田城址は兵庫塚3丁目の児童公園を中心にした住宅地になっています。
頼業は弓の名手で武芸に優れ、また歌人でもありました。宇都宮氏の歌集「新式和歌集」に「春といえば花なき里に行く雁の心のうちやのどけかるらむ」の句が収められています。
頼業の子孫は代々上三川城を居城としてきましたが、頼業七代の孫師綱の三男元朝が八代城主となり 「今泉七郎兵衛尉」と名乗りました。
慶長2年(1597)上三川城が落城したとき、最後の子孫の宗孝は先祖横田頼業が築城した古城跡(横田城)を開発し帰農しました。兵庫塚の今泉淳さんはその子孫です。